本質を見極める眼は信念によって培われる。

実際的な生産物を作らない限り長く実際的な評価は得られない。


メディアアートなどは思いつきで行われ容易な手段によって実装される。
製作者たちは流行り病のような生産物によって虚構に近い評価を得て自己顕示欲を満たす。
その潤いは砂漠で飲むアルコールのように渇きを呼ぶ。


実際、ある一定以上の評価を得ると、それより先に自分がどう活動すれば褒めてもらえるのかわからなる。
最近、若手のギークを見ていると、そういう理由で迷走している人を良く発見する。


こういう場合、適切に進行方向を定めてあげる必要がある。
宗教アレルギーが蔓延するこの国で彼らはおそらく、信念に携わる部分を幼少期に獲得する機会が無かったはずだ。
故にそれを獲得している人間が適切にガイドを勤めるという義務が生じる。


彼らの生産性を社会に還元するということは、すなわち社会の発展によって所属する自分にその利益が帰ってくるということだ。


それに失敗すると、国家のリソースが損なわれる可能性が高い。
かつてそういう人の多くは反政府運動に身を投じるなどして、害悪と化す事が多かった。
自分がケアできる範囲はケアしているが、方法論に従わない人も居るからな・・・。どうしたもんか。